安全ちゃんのはじまりとすべての夢

 青果売り場の一角で125円で売られているカット・パインは、お手ごろ価格とジューシーな甘み、なによりパックをあければすぐ食べられる簡便さが怠惰な主婦の人気を集め、青果コーナーの一角でしだいにその存在感を増しつつあった。一方、非常に硬くとげの多い表皮を持つ果実の性質上、その皮を剥き芯をくりぬく加工作業は非常に煩雑かつ危険であり、また果汁中に含まれる多量の酸やタンパク質分解酵素ブロメラインが皮膚のたんぱく質を分解するため、手荒れを招く。
 だから、岡田真千子の手がささくれだらけなのは決してビタミンA、B2等の皮膚の再生に関わる栄養不足のせいではなかったし、ましてや親不孝が原因などでは絶対になかった。すべては真千子が青果担当であるせいであり、責任の所在はパインにある。それなのに、どうして「外食ばかりでロクなものを食べていない」だとか「あまり実家に帰っていないのではないか」だとか、あたかも自分に原因があるかのように言われなければならないのか――同じく青果担当である中年女性、田尻の心無い一言に真千子は苛立つ。
(ちょっと、ささくれが痛いって愚痴っただけなのに……)
手荒れの結果発生した皮膚の微細な裂け目にだって、容赦なくパインの豊饒な果汁は染み入り成分中の酸が鋭い痛みを指先にもたらす。指先というのは神経が特に集中した器官であり、その痛みに関する感受性の強さから拷問におけるホット・スポットのひとつとして数えられている。指先にガツンと一発。躊躇なく針を深刺しできるのが秘密警察の資質だ。そんな恐ろしいカットパイン作業なので、誰もやりたがらない。結果、気弱な真千子がいつだってその役割を押し付けられてしまうのだ。先あった田尻の一言だって、実際には他人の心に対する無差別的な絨毯爆撃というよりは、「ささくれが痛いから代わってくれ」と言われるのではないかと予見した彼女の戦略的な一撃であり、その意味で彼女は快楽殺人者ではなく先制的自衛攻撃も辞さない大胆な策謀家だった。
 その上こんなひどい思いをして加工しているのにカット・パインの価格はたったの125円なのだ。カット・パインが売れるたび、彼女は身を切られるような思いだった。傷つき、ボロボロになって、他の商品の前出し作業を犠牲にしながらやっとの思いでパインをカットしているというのに、たかだか125円で投売りされてしまうのでは排水溝の闇へ飲み込まれていったささくれの血も決して弔われはしない。
 しかし、そんな真千子の思いも空しく青果コーナーでカット・パインは順調に売り上げを伸ばし続け、いまやカット・フルーツ・コーナーのショーケース内におけるパイン占有率は三分の二にまで達していた。最初のうちは、カット・パインが売れていくのを見ると苦労が報われた気がしてなんとなく誇らしかった真千子だったが、パインが売れれば売れるほど新たな作業が発生し自分がより追い詰められていくことに気づいてからは購入していく客を見てももはやひたすら意気阻喪するばかり、ついには「わざわざカットされた果物を買うような人間は怠惰で愚鈍で自分ひとりでは何も出来ないくせに、嫌なことを平気で人におしつけて涼しい顔をしているような人間に違いない」とつい偏見のまなざしで見てしまうようにまでなった。そんな根拠の薄い推測をもとに、自分の人生とほんのわずかな関わりしかもたない人間にわざわざ侮蔑の感情を向けてしまうほど、来る日も来る日も繰り返されるパイン加工の徒労に疲れ切っていたのだ。
 真千子は、常に山頂に到達するまえに転がり落ちてしまうから決して山頂に届くことのない岩を永遠に山頂へ向けて転がし続けなければならないというシジフォスのような気持ちだった。真千子にとってカット・パインは巨大な岩であり、バック・ヤードはタルタロスの山そのものだった。タンパク質分解酵素ブロメラインの果汁と、その攻撃的な実態に反して甘く怠惰な南国の芳香に満ちたこの場所で、今日も明日もパインの芯をくり貫き続けなければならない。カット・パインはリード・タイムが長すぎる。この作業さえなくなれば、青果売り場はずっと回しやすくなるのに……。

 危険で過酷なスーパーマーケットの青果売り場に生き、青果売り場に死ぬ宿命を背負った哀れな女が、パイナップルを切り刻みながらまだ見ぬ千年王国を夢想する……。それが安全ちゃんオルグ日記であり、ささくれた手をかばいながら震える指でタイプされている日記、それが安全ちゃんオルグ日記である。流れた血の弔いと、全世界のあらゆる安全を願って……。